そうだ 京都、行こう。⑧ 東福寺後編~Yes, I shall go to Kyoto. - Part 8
心地よい新緑のシャワーを十分すぎるほど浴びたのち、やぁ~っと東福寺を目ざした本来の目的である本坊庭園『八相の庭』に辿り着きました。
独特の美的センスおよび独自の哲学的解釈で伝統的な日本庭園にモダンな息吹を吹き込んだ昭和の作庭家・重森三玲の実質的なデビュー作ともいえるこの庭園は、方丈を囲む東西南北の四周それぞれに趣の異なる庭が造りこまれた見応えのあるもので、さして専門知識がなくても見ているだけでイマジネーションが広がる楽しい空間です。
…とはいえ、今回ここを訪れるにあたって事前に重森三玲の著書なぞちらりと読んだりして予習していた私ですが、重森三玲の『三玲』は本名ではなく、私も好きな『晩鐘』『落穂拾い』『羊飼いの少女』を描いた19世紀のフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーに因んで自ら改名したことや、更には自分の子供たちにもヨーロッパの文化人(作家や詩人など)に因んだキラキラネーム的な名前をつけていたという彼の徹底した西洋志向には少々驚かされました。本職の庭園のみならず茶道や華道といった日本文化にも非常に造詣が深い作庭家でしたが、それ以前に、前衛的で自由な思想を持つ芸術家だったということでしょう。
長男の完途(ドイツの哲学者に因んで、かんと)は、やや風変わりな名前ながらなかなかカッコよくて悪くないと思うのですが、さすがに四男の貝崙(イギリスの詩人に因んで、ばいろん)に至っては学校でイジメにあったりしなかったかと心配になってしまいます…このネーミング、鈴子夫人は反対しなかったのでしょうか (^^;
そんな重森三玲ですが、ズバリ『枯山水』というタイトルの著書(中央公論新社より復刊、モノクロながら彼の作品の写真も掲載されていて読み応えのある一冊です)の序章に彼の作庭に向き合う姿勢が端的に表現されている箇所がありましたので、以下に抜粋させていただきたいと思います。
枯山水とは、庭園造形の中にある自然美を、高度に詩訳したものである。一般通俗に言われている意味では、日本庭園の中で、水を用いない庭(古くは水の関係のない場所に作られた庭)と解されて来たのであった。
しかし、枯山水とは、それだけの意味のものではなくて、水に対して、不可能を可能とする芸術性に徹した作品であった。
<中略>
もとより枯山水の発展過程には、盛衰があった。しかし枯山水は、今日なお発展の段階にあって、永遠に創作が続けられつつあるのである。それらの発展は、枯山水が最初からもっていた永遠のモダンという本来の生命が、永遠性をもっていたからだと思う。したがって枯山水は近世の日本の姿であり、近世における日本芸術の特色であり、出色した芸術性に富んでいる。それだけに、他面枯山水の研究は興味があり、特に今日の多くの人々の興味の中心となっていることも当然である。
なるほど~。
しかしながら結論から言うと、近年は発展というよりは停滞しているような気が…おそらくは中根金作による足立美術館(島根県)や重森三玲の遺作となった松尾大社(京都府)あたりを最後に、枯山水の発展過程の盛衰の『衰』の時期に突入してしまったのでしょう。あるいは私が気づいていないだけで、今もどこかで発展的な創作は続いているのでしょうか。そうだといいのですが…枯山水のボードゲーム(かつて『ゲーム』といえば主に人生ゲームのようなボードゲームを指していたのに、今では『ゲーム』といえばアナログなゲームではなくオンラインゲーム的なものを指すのですね…初代人生ゲーム、大好きだったなー♪親戚一同集まってよく遊んでました。「叔父がブタ箱に入れられて保釈金$5000払う」ってコマ、未だに忘れられません!幼少時代、あのゲームを通じて『ブタ箱』なるコトバの意味を知った私でした ^^;)は大人気らしいので、重森三玲が著書の序文で述べたように、枯山水に対する人々の関心は今なお強いものと信じています。
…と、このままでは重森三玲の話だけで終わってしまいそうなので彼について語るのはこのくらいにして、肝心の庭へと話を進めましょう(^^)
まずは東庭。北斗七星に見立てた7つの円柱を高低差をつけて白砂に埋め込み、その後方には天の川を表す生垣を配して小宇宙を創りだした『北斗の庭』です。因みに、北斗七星は『八相の庭』の八相のうちのひとつです。
見学スペースの問題上、残念ながら7つの石柱全てを一枚の写真に収めるような撮影ができなかったのですが、それよりなにより高さがまちまちな円柱たちを見ていてコレ↓が頭をよぎりました!
もうちょっとわかりやすい画像があったら良かったのだけど、パリにはプライベートではかれこれ10年ほど御無沙汰しているため現在手元には大昔撮ったこんな写真しかなく…これはルーヴル美術館のおとなりにあるパレ・ロワイヤルの中庭の風景で、黒×白のストライプの大小の円柱がランダムに配置されているユニークなインスタレーションなのです。
このインスタレーションはダニエル・ビュランによるものであることから通称ビュランの円柱と呼ばれており、1986年に設置されて以来こんな↑感じでベンチがわりにされていたり子供たちがかくれんぼして遊んだりと、なんだかおっきな歴史的建造物でしかなかったパレ・ロワイヤルのイメージを一新する役割を果たしているのですが、それがまさにこの東庭と似ていると思うんですよねー。歴史ある重厚な建築にモダンで斬新な庭、って相反する新旧の組み合わせが。
とはいえフランス国内でもこのパレ・ロワイヤルといいルーヴル美術館の中庭のピラミッドといい、企画が持ち上がったときには歴史ある建築にモダンデザインを組み合わせることを是としない、というか平たく言えば調和がとれていないとする反対意見も非常に多く(私も実はルーヴルのプラミッドはいかがなものかと思っています。多くの入場客をさばくための合理化の一環とはいえ、あのデザインはルーヴル宮の雰囲気にはそぐわないような…でも、ルーヴルのピラミッド同様ガラス張りのデザインを採用したベルリンのドイツ連邦議会議事堂の屋上ドームは全く違和感がなくて、なかなかカッコよかったんですよね~)、ビュランの円柱でさえ設置当初は必ずしもパリ市民に受け入れられていなかったと聞き及びました。新旧デザインの調和って実際、容易なことではないですからね…例えば市街地の景観だって、新旧建築物に統一感がないと見苦しいことになってしまいがちだし。
なので、東庭も作庭当初どのように捉えられていたのか、ちょっと気になったのです。
裏庭か、あるいは勝手口へと降りてゆくための小さな階段から飛石の周辺に砂紋があしらわれ、その先の軒下の近くには灯籠や石柱が置かれていました。こんな些細なスペースもぬかりないってのが、流石です。
そして…
重森三玲が作庭した数々の庭の中でもとりわけユニークで斬新な市松模様の北庭が、こちらです!
説明不要の庭ではありますが、似たような画像をつらつらと並べてしまったのは単に「これ!」と思えるワンショットを撮ることができなかったからです (^^;
緑色の柔らかな杉苔と灰色の硬い敷石の対比が楽しい市松模様は、庭隅に向かってまるでぼかしを入れているかのようにランダムに石数を減らしていて、遠近法を意識した絵画のようですらありました…2次元の絵画の世界観を3次元の庭園という実空間に置き換えた、とでもいいましょうか。
市松模様は、日本の伝統的な文様であると同時に西洋においても昔から一般的に浸透していた模様で、北庭を眺めていた私の脳裏にはあるオランダの画家の作品が浮かんできたのでした。
17世紀の画家フェルメール(『オランダ滞在記 ②』でも触れていますが、ドガ、モネ、ルノワール、マティス、ゴッホらとともに昔からお気に入りの画家のひとりです)の作品にしばしば登場する黒×白のチェックの床のタイルはまさに、この北庭の市松模様のようではありませんか?!
因みに写真㊤の『恋文』はオランダのアムステルダム国立美術館、写真㊦の『手紙を書く婦人と召使』はアイルランドのナショナル・ギャラリーに収蔵・展示されているもので、いずれもたまたま昨夏訪れた際に撮った写真です。更に、全くの偶然なのですがこの2枚の絵はいずれも、1996年3月1日から6月2日にかけてデン・ハーグのマウリッツハイス王立美術館で開催されたフェルメール大回顧展を記念して同年2月にオランダから切手として発行されており、なおかつS/Sにもなっているのです!
中央の額面80cの切手が『恋文』で、向かって左の額面70cの切手が『手紙を書く婦人と召使』、そして参考までに向かって右の額面100cの切手はアムステルダム国立美術館蔵の『手紙を読む青衣の女』です。
ほかにもまだオランダにフェルメールの絵はあるのに、それ以前に、大回顧展の会場だったマウリッツハイスにもフェルメールの代表作ともいえる『真珠の耳飾りの少女』があるのに、どうして国外(アイルランド)に渡ってしまった『手紙を書く婦人と召使』の切手を発行することにしたのかワタシ的には謎だったのですが、今思えばあえてこの大回顧展の記念切手として発行するチャンスを捉えて国外にあるフェルメール作品を切手にしたのかもしれませんね(ならいっそのこと、他の2枚も国外に流出した作品にしても良かったかも…アメリカのナショナル・ギャラリー所蔵『手紙を書く女』なんて、とても切手映えするような気がしますけど)。実際は単に、切手だけに手紙が描かれている絵を選んだのだと考えられますが、それならそれで左と中央の切手の順番を入れ替えて『ラブレターが来る→返事を書く→その返事が届く』ってストーリー仕立の並びにしてほしかったな~~なーんて思ったり (^^;
フェルメールの作風の極めて特徴的な要素のひとつに綿密な計算に基づく透視図法(遠近法)が挙げられます(フェルメールの研究家によれば、彼は遠近法の知識をベースに、タイルの数を増減することによって様々な絵画空間を創作していたと推察されるそうです)が、北庭のランダムな市松模様の配置はフェルメールが描いた床のタイルのように遠近感を持たせる役割を果たしているような気がして、それでこの北庭に絵画的な芸術性を感じたのかもしれません。
重森三玲と交流のあった彫刻家イサム・ノグチはこの庭を評して「モンドリアン風の新しい角度の庭」と述べたそうです。確かに、市松模様だけみると垂直と水平のグリッドのみで構成されたモンドリアンの『コンポジション』を思い浮かべることもできますが、私の解釈ではこの庭は地表の市松模様だけでなく、サツキの丸刈込みの植栽や背後に生い茂るカエデの木々をも含めた空間全体で庭として成立しているのであって、コンポジションのように平面の直線だけで構成されているわけではない、と…なのでむしろ、フェルメールの絵のような庭、という印象を抱いたのでした。もっとも、とびきりモダンだと言われているこの庭が17世紀のフェルメール風じゃあ、ちっともモダンじゃなくなっちゃいますけどね~。
とはいえ、奇しくもモンドリアンとフェルメール、生きた時代は違えどいずれもオランダ人なんです。そして私のブログには、どーしてだかモンドリアンがちょいちょい登場するんですよね…と、まとまりのないことをいろいろ書き綴ってしまいましたが、本坊庭園の中でもこの北庭はとりわけイマジネーションをかきたてられる幽玄な世界が広がっていたのでした。
北庭から西庭へと辿り着く前に、先程通天橋から見えた方丈脇の見晴らし台『通天台』に立って再び洗玉澗を望みます。
うーん。今、改めて見てもやっぱり「壮観!」としか言いようがない、圧巻の光景です。
前日訪れた宇治川周辺もそうでしたが、ここもやっぱり新緑の季節は大人のデートコースかなぁ、と。この美しい緑を前に(あるいは背に)、いくらでも和やかに語らえる気がします。
私がここで洗玉澗をぼんやり眺めている間、慌ただしくデジカメ(あるいはスマホ)のシャッターを切って通りすぎてゆく人が少なくありませんでしたが、この風景を写真に収めるためだけにではなく、四季折々の自然の有り様を感じるためにこそ訪れてほしいと願わずにはいられなかったのでした…
で、こちらは大きな市松模様の西庭、通称『井田の庭』です。
庭を対角線で仕切った北西側に正方形に刈り込んだ植栽と砂地で形成された大柄な市松模様は井田(せいでんとは、井の字の形に9等分した古代中国の土地制度である井田制に由来します)、つまりは田園風景を表現したものだと言われていますが、大きさは違えど市松模様つながりってことでお隣の北庭との連続性が感じられます。対角線といっても直線ではなく、曲線の苔地で緩やかに仕切られていて、まるでそこに川が流れているかのような大胆なカーブが描かれています。直線的な市松模様との対比がおもしろいですよね。この井田市松は『八相の庭』の八相のうちのひとつです。
残念だったのは私が訪れたとき植栽(サツキらしい)の一部が元気がなかったってことで、西の方が北より陽当たりはいいはずなのにどうしてかな~って思っていたのですが、南北の庭に比べてここはお手入れの優先順位が低いのかも?という気がしました。この庭は(できることなら)俯瞰した方がその特徴を掴みやすいだろうし、より一層楽しめるでしょうね。
ここに至るまで相当時間がかかりましたが、やっと4つめの南庭に辿り着きました。
東西南北の庭の中でここが最も(あるいは、ここだけが)外観上正統な枯山水の体をとっているのですが、素人の極めて個人的な所感としては、広い庭の中に作庭家が表現したかったこと(蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁の四仙島および八海・五山で、これらは『八相の庭』の八相のうちの6つです。先に述べた北斗七星と井田市松と併せて八相が出揃いました)が緻密な計算のもとに完璧に詰め込まれているのだな、といったところでした。つまり、パッと見、他の3つの庭との比較において重森三玲らしい個性といったものはさほど感じられなかったのです。
しかしながら実際は、四仙島に見立てた巨石にしてもこのように横長に置かれることは従来の庭園にはない画期的な手法だったようで、屹立させた巨石とともにダイナミックさを醸し出すことが重森三玲の狙いだったのです。つまり、感性の欠ける私は「ちょっと大きすぎてうっとーしいな~」なんて思ってしまった長石が肝だったんですねー。
そして何より、『八相の庭』の中に『九山八海(古代インド仏教の世界観で、ばっくりいうなら9つの山と8つの海で構成された小宇宙のこと)』をも組み込むという意欲作だった…などということは不勉強な素人には判るはずもなかったのでした。四仙島の4+五山の5=9=九山だなんて、仏教を深く学んだ人でなければ気付きませんよね?
この、美しく渦巻く砂紋↓が八海です。何だかオプティカル・パターンに見えてきた…
そしてこちら↑は五山の一角です。四山しか見えていませんが…(^^;
東福寺は京都五山の第4位なので、この築山もそれをなぞらえているのかと思いきや、京都五山だけでなく天竺五山・中国五山をも表しているのだとか。これまた不勉強な素人には判る筈もなかった、なんとも壮大なスケールのテーマが隠れていたのでした。
その一方で、こういった庭隅や角のあしらいというか、細部のディテールにも幽玄なる美的センスが感じられました。
いずれにしても、昭和初期の当時としては斬新というか画期的であったはずの重森三玲のこのデザインを採用した東福寺の懐の深さ(あるいは、責任者の識見)に感服いたしました。この作庭が第二次大戦前のギリギリのタイミングだったということも、ラッキーだったと言えるでしょう。
そんなつもりはなかったのですがかな~り脱線してフェルメールの切手まで紹介したりして、結果的に長々と書き綴ることになった本坊庭園はこれで(やっと)おしまいで、続けて洗玉澗を流れる三ノ橋川にかかる3つの橋のうち最上流にある偃月橋(えんげつきょう)に行ってみました。
えんげつとは何ぞや?と思われる方もいらっしゃることでしょう。実は私もです (^^;
半月よりやや細い月のことで、弓張り月とも言うのだそうですよ~。でも何故この橋が偃月橋と名付けられたのかは、不明です…臥雲橋と通天橋は雰囲気的に納得なんですけど。
もしかしてオリジナルの橋は弓の如くしなっていたのでしょうか?おそらくそうでしょうね!現在のほぼほぼまっすぐな橋は1603年に再建された(それでも再建後400年以上経て現役って、すごいですよね!)ものだそうで、日本百名橋にも選ばれています。
実際渡ってみて、通天橋や臥雲橋にはなかった、年代モノの橋ならではの若干のスリルを感じました…
わかりますか?
橋の中央にちょっとした隙間があるんです。亀裂ではないのですが橋板と橋板がぴったりあってなくて、隙間から橋の下の景色が見えたりして…私、高所恐怖症じゃないから下が見えても別に平気でしたけど、気になる人は結構気になっちゃうんじゃないでしょうか。ただ、橋のクオリティというか安全性は多少気がかりでしたけど。
この橋の先にある龍吟庵という塔頭の庭園もまた重森三玲が手掛けており、鞍馬の赤石を砕いたという錆砂利が敷かれた東庭と、青龍が黒雲とともに昇天する様を表現したという西庭を見学したかったのですが、残念ながら普段は一般公開されていないそうでこの日も門が閉ざされていたため、そのまま橋を渡って引き返しました。ホントーに残念。
境内には山門、本堂、その他伏見稲荷の縮小版みたいな鳥居群や東司と呼ばれる所謂トイレの遺構などもあり、隅々まで見て回るとなるとかなり時間を要するかもしれません。でもやっぱりここの見どころは庭に尽きる、と言えるでしょう。
次回は紅葉のシーズンに訪れたいものです(が、そんなときに来たら激コミで、きっとイラっとすることでしょう)。
最後に、重森三玲の庭に敬意を表し、市松模様が描かれた切手を取り上げて締めくくりたいと思います。
日本で開催された第16回万国郵便連合会議を記念して1969年10月に発行された4枚のうち、額面50円の鈴木春信の『中納言朝忠(文読み)』がそれです。
向かって右側の女性の帯の柄がまさに市松模様なんです。左の女性の帯柄もですけど、なかなかハイカラですよね。但しこの切手、クオリティにやや難アリ…ということを、期せずして尊敬するTさんがご自身のブログで既に言及されていました!ので、詳しくはリンク先をご参照ください。
因みに原画の錦絵には、三十六歌仙のひとりである藤原朝忠(中納言朝忠)の以下の句が書かれています。
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
小倉百人一首44番です。
あなたと会うことが一度もなければ、あなたのつれなさも私の身の不幸も、こんなに恨むことはなかっただろうに(=あなたに出会ってしまったばっかりに、この苦しみは深まるばかりだ)、というような内容かと存じますが、かつて百人一首愛好家だった私(小学生の頃はクラスのかるたクイーンで、9割方暗記していたんですけどね~)、当時この句に何の興味も関心も抱いていませんでした。ってゆーか当時はせいぜい表層的にしか理解できなかったでしょうね。
でも今になって改めて句の内容を考えるに、恋愛における機微といったものは時代を越えて不変なのだと思い知らされます。中納言朝忠さんに「よくわかるよ~、その気持ち!」って言ってあげたいくらい。1000年以上も昔の人が詠んだ句がこんなにも身近に感じられるなんて、凄いことですよねぇ。
で、春信の錦絵はこの句にあわせて、さしずめ、なかなか会えない恋人からの手紙を読む女性を描いているといったところでしょう。
以上をもって、今春の京都散策は終了です。東福寺後編はだらだらと長くなってしまいましたが、案外本人は楽しみながら書いておりました。
いずれまた『そうだ 京都、行こう。』の続編を書くときがくることでしょう。